夫のことは好きだし面白い人間だと思っているが、同じ物事に対する物事の感じ方が180度違うことで、子育てにおいて噛み合わない場面が時々ある。
夫はよく、わたしが息子(弟)を褒めたりする場面で「娘が可哀想」と言う。
夫自身は娘の前で決して息子を可愛いとは言わないし、褒めることもない。(思っていないのではなく、敢えて言わないようにしているらしい)
息子が生まれて、か弱きものにかかりきりになりがちなわたし自身のバイアスで、罪悪感からそういった夫の言動に居心地が悪いのかもしれないと思った時期もあったけれど、おそらく夫はこの傾向が強いと思う。
理解できないでもない。
自分に向けられるべきだった愛情が他人に向けられることへの不安や恐怖、寂しさ。
それを夫自身が感じるタイプだからこそ、娘の置かれる状況に対して反射的に「可哀想」と感じるのだろう。
夫とわたしとの物事の感じ方の大きな違いの一つに、他人の幸福(そうな様子)を喜ぶかどうかがある。
わたしは自覚するところによれば比較的うれしい方なのだが、夫はおそらくそうではないらしい。
夫自身の発言やふだんの様子からも、よくそれを感じる。(だから生きづらいだろうなとも…)
かつ、娘は大体において夫に性格が酷似している。
だから、夫の娘に対する「可哀想」は本当に辛い場面である可能性があるし、とくに初期などはそうだったかもしれない。
こういうことを理解したうえで、それでもわたしは娘にも息子にも隠さず愛情表現は行うのが良いのではないかと思っている。
成長して大人になった夫が今感じているようなことを大人になった娘が感じるとは限らず、親の接し方次第で、今の娘は大きく変容するだろう。
仮に似た精神構造を持っていたとしても幼少期からそのスタンスを植え付けなくても良いのではないかなと思うのだ。
夫自身の問題を勝手にあげつらって本人の了解も得ないのは多少不公平だが、他人の幸福を喜ばないというのは、幸福というものの総量が決まっていて、それを他人が受け取る分自分の受け取る分が減ると信じているからではないだろうか。
わたし自身が他人の幸福を喜ぶのは、シンプルにそれが自分の損に直結するとは思えないからにほかならない。
幸福は、既にあるところから貰ったり他人から受け取るものというよりも、自分自身でも創り出すことができて、さらに言えば、他人に幸福を与えることで自分自身が幸福になるようなものではないか。
綺麗ごとに思えるかもしれないが、突き詰めるとわたしはそう考えている節がある。
もちろんうちは長幼の序を重んじていて、何か順番を決めるときには、必ず姉からだ。
ご飯もお風呂も家を出る準備も、「先にお姉ちゃんね」と2人に伝え、そうしている。
ただ、2人が違う個体である以上、こういう理由から、褒めたり大好きだよと伝えたりといった愛情を感じさせる、その先の幸福を生むであろう言動については、わたしは2人に対して平等にしていきたい。
娘に、他人の幸福を見て不幸を感じるよりは、なんとなく嬉しい気持ちになるようになったら良いな、という、これもわたし自身のエゴであるし、夫の現在をある意味否定する結論でもあるのかもしれない。
現状として、娘は自己主張も我も強い方だけれど、時折優しさを見せてくれる。
息子のことも、今はせいぜい舎弟程度にしか思っていないかもしれないが、それでも可愛い存在として世話しよう、守ろうとしてくれているように見える。
一方でやはり寂しさもあって、わたしが弟のこと(大体生理的なイベント)にかかりきりになる時間が長いとつまらなそうに振る舞う時もあるし、おもちゃを貸してあげない、奪うといった言動に出る場面も。
総じて、娘は新しい存在にたいして順当にストレスを感じ(まったく感じないのも不自然だと思われる)、それを受け入れながら自分自身も変容し、より良く成長してきているのではないかなと思っている。
今後はどうだろう。
わたしの綺麗ごとだらけの実践が、娘を多少生きやすくしてくれたらうれしい。
ただ、何事も白黒ではない。
わたしのスタンスも完全無欠ではないし、夫とてそう。
良い具合にブレンドしながら、夫の感じるところによる夫の言動で、部分的にでも娘が救われることにも期待しているし、娘と息子2人にとっての生きやすさの素地を作れたらいいなと思っている。