子どもが生まれて人生はどのように変化したか

娘が生まれてからの変化について、現在までをまとめる。

母になった”わたし”は別人になったのか

よく、「母親は子どもが生まれると人が変わる」と言ったようなことを聞く。

自分についてどうかと言われると、たしかに子どもという今や大きすぎる存在が居なかった世界と存在する世界では、完全にわたしにとって異なるものだし、その意味では変化したと言える。

娘の寝顔を見ながら、どんどん大きくなってしまって、うれしいけど寂しい、うれしいけど!とダバーっと泣いているわたしを見て夫が「待って誰これ…俺の知ってる●さんじゃない、こわい…!!!」と引いていることが良くある。

ただ、自分自身について、所謂その元々の性質や根幹を揺るがす変化が起きたかと言うと、決してそうではない。

寧ろ今は、子どもが生まれる以前に長年考えてきたことの答え合わせをしているに近い感覚だ。

娘と同じ目線に立ち、一緒に木々や虫、葉っぱなどを眺めていると、「あぁわたしの感覚は特に狂ってはいなかったのか」と思わされることが多い。

娘がわたしに寄り添ってくれるからそう思えるのかもしれない。

”自分ファースト”ではなくなった人生のその先で

もう一つ、最近SNSで目にした考えでなるほどと思ったものがある。

子どもを生みたくない理由として「”自分ファースト”の人生を送りたい」というものだ。

いや超わかる…自分が楽しんでこそ人生に責任が持てるし、”自分ファースト”でなくなった先での生を誇れる・愛せる気がしなかった。

実際どうかと言うと、確かに、子どもが生まれてから自分一人の為の自由時間などはほぼなくなったし、気付けばいつも子どもか夫のことを考えている。

だけど、個人的にはこの”自分ファースト”ではない状態、予想していたよりもずっと歓びに溢れている。

わたしの場合世界を閉じているというよりもむしろ開放的になり、娘や夫を通して世界を見るし、娘や夫が生きやすい世の中を作りたいと思うからこそ本業でも精が出せたりする。

一人で得られる歓びには限りがあったというのは、子を生んで得た実感でもある。

多少下品な言い方をしてしまうと、”自分ファースト”を越えたところに見つけた生の彩の豊かさと、これまで以上の歓びあふれ出る様を知った今、先に見かけた子どもを生みたくない理由などを見ると、納得すると同時に「まだそこにいるのだね」と微笑ましく思う。

余談になるが、”子どもを生まない”という選択は、大学の選択科目を”ただ選択しない”ようなものだ。ただ”選択しない”だけのことをあたかも正当な行為として能動的・積極的に主張しなくてはならないと感じさせる社会事情自体、かなり不幸なものだし、これこそ我々の世代で変えていかなくてはならないと思う。ちなみにわたしが長年子どもを生むことを全く考えなかった理由は「クソ面倒くさそう」だ。こんな感じの理由を堂々とまかり通してきたほうだから、誰しも生みたかったら生むというので良いと個人的には思う。

今、どんなことに関心を抱いているか

わたしが昔から自分自身に課している行動指針は、野生的で優しく強く美しく在ることだけだ。

そのうえで、先の事情もあっていまや”自分が”楽しい、”自分が”美しい、”自分が”最高…みたいな話はもうあまりカッコ良いと思えなくなってきた節があるし、わたし自身にも尊ぶものがある。

本業ともかかわるので具体的には割愛するが、少し明かすと、わたしは、次の世代に残すべきものだけを残し、それ以外のゴミを片づけたいと考えている。

新しく生産する以上に、これまでの積算から選び、選ばないものを削ることを優先する。

世間の考えが「変わった」と実感できるほど変わるには、わたしの知る限り2世代ほど時間を要する。

だからわたしが生きている間にそれほど大きな変化などは望めないかもしれないが、それでも地道にやりたい。

こういった現金な事情から、原則わたしが付き合う相手は楽しくて美しくて最高なのはもはや間違いがないのだが、その先で相手がわたし同様「何を尊んでいるのか」については、つぶさに関心を向けていく必要があると思っている。

たとえ人間的に好ましい相手でも、こうした部分が大きく違えば一時的に交わりを断つだろうし、互いにそれが変化すればその先でまた交わることもあると思う。

そんな感じだ。

とりあえず今日も娘は可愛い。

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