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娘、『カールじいさんの空飛ぶ家』を「かーじぃしゃんとしょーとーいぇ!!!!!」という。
じゃがいも、は「がじゃいも!!!!!」という。
冷たい、は昔「ちゅんばーい」だったしりんご、は昔「らぃこん」だったけどもうそのまま言えるようになってしまった、鬱だ。
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サイト名の由来と娘に抱く理想

聞くといつも娘を思い出す曲がある。
”Bad Girl”の元ネタと親としての意図
JUDE『Bad Girl』
(出展:https://www.youtube.com/channel/UCcDfIPXGrm_M2i0bGBuxMng)
東京生まれのぶっ飛んだ女
ロックンロールが大嫌いなんだ
大好きだよ Bad Girl Bad Girl Bad Girl Bad Girl もう離さないよ
小っちゃい時から めちゃめちゃかわいい
やることなすこと 神がかってるよ
チャイコフスキーとヘビーメタル好き
きょとんとした顔でケリを入れる
JUDE BAD GIRL 歌詞(出展:Jet Lyrics – Fast, Simple, and Accurate Searchable Lyrics Database)
東京生まれでぶっとんでいて、小さい頃からめちゃめちゃかわいくて、ロックでは鬱陶しげな顔になる。
チャイコフスキーとヘヴィメタでは安らいだようになり、踊り始める。
足癖が悪く、わたしの顔面にも笑顔でケリを入れてくる。
確かに…確かに…!ということでこれがサイト名の直接の出展にはなる。
もちろん”Bad Girl = 悪いコ”に育って欲しいという意図があるのではない。
意図は、むしろ以下に近い。
「あなたが”Bad Girl = 悪いコ” だったとしても、永遠に大好きよ!」
親であるわたしはどういうコだったか
わたしは、幼い頃から「良いコねぇ!」「なんて良い子なの!」「完璧!」とほめそやされて育った。
当然内面には”良いコ”に当てはまらない側面も人並みにあり、しかしそういう側面は器用に大人から、というより主に母からは見て見ぬふりをされてきたように記憶している。
「良いコだと思っていたのに」「良いコのあなたがどうしてそんな口のきき方をするの」
母なりの教育方針だっただろうが、不穏なことがあるたびこう揶揄された。
それで「良いコ以外の側面は、母には見せない方が良いのだな」と悟ってからは、悪行は主に外で、親に漏れぬ形で、親に漏れぬのを逆手にとり恐らく周囲の子どもよりも派手にするようになった。
ある時期にはそれで結構荒れたし、道も綺麗に踏み外してきた。
親元を離れる=解放でしかなく、地元を出てからは随分と地元とは疎遠に暮らしてきたと思う。
全てが悪い展開だったとは思わないが、”良いコ”を強制しないことで過剰な軋轢→解放の変態っぽい図式を回避(緩和)できるのでは?と考えている。
だから娘には、別に幼い頃のわたしほど「良いコじゃなくっても大丈夫よ→悪いコだったとしても、永遠に大好きよ!」と今から思うのだ。
娘になってほしい姿
随分と懐の広い臆病なモットーを掲げたが、かといってわたしにも親として娘に理想を抱かないわけではない。
娘には、生涯幸福で生きて欲しい。
悲しいことがあっても辛いことを経験したとしても、無理矢理産み落とされたこの世で楽しく生き、愛のようなものに触れ、できれば笑顔で歓びと共に生きて、生が終わるときには「生まれてきてよかった」と感じて欲しい。
そのために、娘には”強く”なってもらう必要がある。
強さにも色々あるが、親として、身体的性女性である娘を助けるだろうと考える強さは今のところ以下の通りだ。
「根拠なき自信と楽観」
人生にはままならない場面がある。
原則何事も一生懸命やるという前提だが、頑張っても報われず成果が得られなかったり、深く信頼していた人に裏切られたり、全ての善意が裏目に出たり、とにかく掲げた理念や行動が結果に結びつく論理性から外れた動きに翻弄される事は、生きていると必ずある。
そういう場面で絶望せず生き続けられる程度には、自信を持ち、楽観的でなくてはならない。
最終的に、どれだけ人に迷惑をかけたとしても、失敗の先で「まっ!ええか!」と思うことができて、自分が生きることを優先できる人で居る必要がある。
自分が幸福でなくては周りの幸福もないということをいつも心のどこかでは知っていなくてはならない。
まぁ、それを支えるが幼少期の親の愛情に他ならないだろうから、今まさにわたしが注力している部分でもある。
「知性と好奇心」
人生は楽しい。
この楽しさは、知性と好奇心とを以て一層、というかほぼ無限に拡大・深化することが出来る。
知識や教養を身に付けることを軽んじることなく自ら学び続けて欲しいし、心の琴線に触れたものには恐れず飛び込んで、それを自分のものにしようと試みて欲しい。
そうして、親元を離れた後から彼女の人生に沢山の色がつけば良いなと思う。
わたし達は必ず娘より先に死ぬ。
自立した先で地道に娘を支え続け、美しさや優しさを付与してくれるのは、こうした知性や好奇心に他ならないだろう。
「野生」
人生は、人の生であるが、人のみによって構成される生ではない。
文明化された時代だが、やはり人以外の物事…空気や大地・水や木々・動物たちとの生もかなり大きな部分を占めているし、なにより生まれるときも死ぬときも人は孤独なものだ。
したがって、どこかで文明化されきっていない「人」を必要としない野生のような部分を残しておくことが、快く生きるためにはかなり重要だと考える。
たとえば、わたしは自分自身の、見知らぬ山中に置き去りにされても1ヶ月木の実や食糧を調達しながら生き延びられそうなタフさが好きで、まぁそんなことをする機会はないかもしれないが、これが日常生活の快さにもかなり直結している気がする。
人の多い場所では雑木林に似た静寂を感じられ、大地や空気と一体になる感覚を知っていること。
誰かと楽しく過ごすことと同様に、一人でも楽しく居られること。
こういう感覚が、絶対的に孤独である生を支えてくれるし、人と生きるうえでも彼女の助けになるだろう。
ここまで書いて改めて思うが、親はこういう強さを身に付けさせるために今まさにやるべきことが非常に多い。
そして、羅列したこれらの事柄はやはり、わたしの知る“Bad Girl = 悪いコ”の実像となんら矛盾しないものである。
だからこの曲も時々聞かせていこう。
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娘がかわいい。
ひとさし指に、どこかから拾ってきたらしい少し大きめの埃をひとつくっつけたままずっと楽しそうにニコニコ部屋の中を散歩している。
それちょうだい?と声を掛けると、「やっ」と言って逃げてゆく。
はぁ…かわいいな…
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娘がかわいい

これは娘についての手記であり、親としてのわたしの所感・内省録のようなものである。
断じて親バカ日誌ではない。
娘が昨年2歳を迎えた
徐々に言葉数が増え始めた1歳後半から怒涛の成長、と書くと少し大げさだが、今この一瞬一瞬があまりにも貴重で尊く、予想以上にころころと移り変わっていってしまうので、手元の手帳に手記として残しておくのでは足らなくなってきた。
そしてわたし自身が、細かく書いておかねば後々後悔するだろうと判断して、成長(親の成長も含)の過程を記すことにした。
ネット上で公開するわけであるから、将来娘の不利益となるようなことがあってはならないし、個人情報や時系列はぼかして記すが、描写する際には、現実(母であるわたしの感情ふくめ)を現実として極力ありのまま書く。
今日は、現在のわが子について紹介する。
<わが子>という存在について
親にとっては珍しくもない感情だろうが、わが子は、つくづく神秘で、“ただそこに存在している”ということだけが、わたしの生をも明るく照らすような性質を持っている。
出産するまで子どもは嫌いだった。
だが今ときたらどうだろう。
我が子を思わせる丸い背中が、ぽつんと部屋の隅で寂しそうに佇んでいる場面を想像するだけで、実際そうあるのではなくただ想像するだけで、わけもわからない感情に名前を付けるより先に涙が溢れ出てくる。
急に泣き出すわけだから傍目には怖いのかもしれないが、自分としては未だに面白い。
ナニコレ?
とにかく、この異様な状態を標準化してしまうのが<わが子>だ。
わたしとは全く異質の新しい個体でありながら、今やわたしの全てであり、生きる希望であり、未来であり、今そのものである。
娘はどういう子か
わが子・娘は現在2歳であるから、未だ明確な自我を芽生えさせて久しくなく、これからそれも様々に変わってゆくだろう。
あくまで“現状”どういう子であるかについて、わたしが理解している範囲で書く。
めちゃめちゃ可愛い
もうこれは…
寸分の間違いも狂いもなく世界における共通の事実として声を大にして言いたいが、本当に本当にかわいい。
まごうことなき可愛いの化身。というよりも最早、可愛さが服を着て歩いているし、時折こちらを見てにっこり天使のように微笑む。しぐさも容姿も声も、拾って手渡してくれる道端の落ち葉含め全てが可愛い。この点が最も業が深い。
活発で明るく我儘で粗野、かつ慎重
天真爛漫で機嫌が悪くないとき以外は声を上げてよく笑う。
わたしの幼い頃にはなかった活発さもあり、面白いものを見るとすぐに走り出す。
高いところにも登りたがる。
そして子どもの性質としてとてもまっとうに、我儘で粗野である。
一方、良く知らない物事については初対面で強く警戒する。
警戒が度を超して恐怖が喚起されると、遠くから「イヤーーーッおしまい!!!!」と叫んで自分の世界から締め出そうとする。
人の気持ちをよく慮り、空気を読む
同じ指示を出したとしても、声色や表情、空気を敏感に感じ取り、その真意を察する能力に比較的長けている。
母であるわたしが疲れ果てていると近寄ってきて「だいじょぅぶ?」と様子をうかがってきたりする。
この影響か、人為的な物事に於いて恐らく同月齢の他の子よりも少し、諦めが早い気がする。
聞き分けが良いともいえるだろうが、要するに大人の事情で自分の目的を達成できなかった場合に、それを納得できていなかったとしても、癇癪を起こしたり大泣きすることが少ない。
現在わたしが多少憂慮する点でもある。
未だ彼女の世界では父母が全て
当たり前だが、外部で触れ合う一部の仲の良い大人を含め、娘の世界は未だ広くなく、1日を家の屋内で過ごしても、そこに親が居れば何不自由なく楽しく暮らせる。
普段特別に寂しがりということはないが、怖いことや痛いことがあった時、寂しい時には真っ先に母の元にダッシュしてハグを求める。(生きていて良かった)
絵本・本を好む
大体1日に絵本を20冊~読む。
この習慣からか恐らく、本には深い馴染みを抱いており、好きでもある。
おもちゃの大きな箱を開けたとき、中のおもちゃではなく付属の説明書きを読みたがる。
もちろんまだ読めないが。
歌を好む
音楽やそれに合わせて体を動かすことが好きで、リズムに合わせてよく一人でダンスを踊っている。
リトミックや他の習い事でも、音楽を用いる教具の場合食いつきが違う。
但し未だ演奏することの興味は長続きしない。
ここまでで明らかであるように、要するに娘は、何か目立って特異なパーソナリティが形成されている段階には来ておらず、わかりやすく「子ども」だ。
どの性質も真逆の性質を備え持っており、今のところ良いバランスで構成されているのではないか。
今後どう変わっていくのかが楽しみでもあり既に寂しくもある。
難しいと感じていること
数に関する概念的な理解には難儀している。
記号や音としての数「字」は理解できても、例えば指を1本たてたものが、軒先の一羽の鳥と同数を兼ねているとは未だ理解できない。
先日公園で知り合った親御さん曰はく、数の概念の基本的な理解は小学2年生あたりまでに完成すれば良いとのことで、最初は誰しも記号・表象としての理解からスタートする方が自然、それほど急ぐ必要もないかもしれない。
とはいえ、今後少しでも計画性を以て物事に取り組む場合には必要な概念であるから、手近なところからイメージを形成するよう努めたい。
今年をどう過ごさせるか
娘の2022年のテーマは一言でいえば「自立」になるだろう。
集団生活で苦しまぬ程度に自分のことは介助無しで一人でできるようにしてやる必要がある。
先に羅列したパーソナリティをより豊かに鮮やかに育てつつ、難しいと感じていることにも目を向けながら、生活をベースに少しずつ「自分でやる」楽しみを見つけさせる年にしたいと考えている。
わたし自身「生活」が最も苦手なので不安もいっぱい!
まぁ、実際やりたいことは多く、また個別に書くつもりだ。