「だっこー!!!」

娘が「だっこー!!!」と怒るのが、気の毒だけどかわいくて好きだ。

もちろん怒らせたいのではない。

わたしの仕事が基本フルリモートなので、起きている間は四六時中一緒に過ごしている。

だから視線は常に向けておける。

危険があれば止めに行けるし、泣けば抱き起しに行ける。

とはいえわたしが仕事に完全に集中する時間帯もあるわけで、そういう時は定点の監視カメラで娘を見ながら、わたしはPC画面をにらみっぱなしになる。

その間娘は傍で一人あそびをしているか、ディズニー映画を見るかしている。

時々、チャイルドガードの柵にもたれかかってじっとこちらを見ている視線に気づきながら、PCから目を離さず作業したりもする。

娘は物分かりが良く、すぐにぐずるといったことは多くないが、それでも暫くすると何だかんだ焦れてきて、構って欲しいアピールをし始める。

それでも放置している(繰り替えずが意地悪な意図ではない)と、ある時檻に入れられた動物園の動物よろしく、柵をガシっと掴んでこう叫ぶ。

「だっ…こー!!!!!!!!!!」

かわいすぎてその時点でわたしの集中時間は終了する。

ごめんお待たせ!と謝りながら抱き上げて部屋中を連れまわし、抱きしめて大人用ベッドに一緒にダイブして全身をくすぐる。

お腹の上にのせて娘を見上げると、たいてい満面の笑みで、ときどき「してやったり」の顔をしていたりする。

母は弱い。

雨の日のお迎えは、ベビーカーに取り付けたレインカバーの端から娘が脚をぴょんこぴょんこしてるのが見える日でもあるので、これはこれで楽しい。

でも今日は寒すぎたのか静かだった。

わたしも傘をさしながらベビーカーを進ませるのに必死で、娘が静かなのに暫く気をとめなかったが、突如無音に気付く。

息してる?!という不安に駆られて急いで覗き込むと、まんまるな目で前を見ながらじっと静かにただ座っている娘と目が合った。

目が合ったとたん、エヘヘッと笑った。

幸せや…

娘が一時保育に行ってしまい寂しい。

集団保育に慣れさせるために行かせているけど、毎回先生を見るとダーーッと駆けていって振り返りもしないし、遊び始めたらすごく楽しそうだし、もはや普通に通わせてあげた方が良いのでは、という気に度々させられる。

成長はうれしいけど、めちゃくちゃ寂しい…

娘が居ない間は仕事に集中できるはずなのに、なぜかずっとそわそわして考えごとにならない。

娘が居れば居たでほっぺを食べたりハグしたり抱きしめて部屋を散歩したり一緒に歌を歌ったり本を読んだりして忙しいのに、居ないなら居ないで、娘のうつった画像や動画を無限に眺めて過ごしてしまう。

聞かれるまでも無く大丈夫じゃない(わたしが)。

ので、これを書いたら仕事しようと思います。【宣言】

優しさはどこから?

娘が寝入り間際の「大好きよ」「ずっとずっと大好きよ」「ぎゅー」をマスターしてしまい、本格的に生活が詰んでいる。

ベッドのそばから離れられないし、永遠にベッドの柵越しに「ママのほうが500億倍大好きよ!!!」「ずっとずっとずっとずっと大好きよ!!!!!」「ぎゅうぅぅぅぅううううう!!!!」等々やってしまい、仕事が手につかない。

娘が優しい

娘に自分が持ちうる優しさのようなものを、自分が持ちうる限り与えようと試みていたら、娘が最近それをちょっとずつ真似るようになってきた。

いわゆる”優しさの表現”をしてくれることが増えている。

わたしが疲れて臥せっていると「だいじょうぶ?」と尋ねてきてくれたり、地震でバタバタとケージの中で暴れるインコに向かって「🐥ちゃんこわくないよー」「だいじょぶよー」、普段の姿には「かわいいねー」「すきよー」と声を掛けていたりする。(カワイイ)

優しさの原点

されるたびうれしくて幸せで昇天しそうになるし、優しい子に育っているわとうれしくなったりもするが、それ以上に、優しさの表現や他者へのGive的な行動の原点は、たんにこういう真似=イミテーションによるところなのかもなと実感する。

先の優しさの表現に関しては、おそらく娘自信が深く考えて行動を選んでいるというよりも、「母親もこれをやっているからたぶん危険とかじゃないんだろう。とりあえずやってみっか」くらいのものだと思う。

怯えたりパニックでない時、好奇心に突き動かされて子どもは色々な新しいことをやりたがる。

だから、そもそも自分が他人から何かを与えられており、その後自分と同じような立場の誰かを見つけたら、自分が最初与えられたように、その人に与えてみようとしたがる。

「自分がされたことを、次は自分もトライしてみよう」こういう動機は、かなり自然であって、人間が社会参加・形成する生き物である所以を見る気がする。

だいだい、娘は話し方や声のトーンがわたしにそっくりだし、姿勢まで寄せてきているし、なにより楽しそうに真似ている。

継続的にそうあるためには

例えば、娘の優しい行動を見たわたしは、優しいねぇ!ありがとう!すごいすごい!とべた褒めする。

すると娘はにっこり安心したように笑い、次も似たような行動をする。

こうした流れが出来上がり、行動が習慣化し始めている。

このようにして、例えば優しい人が出来上がっていくのかもしれない。

未だ2歳にして子育ての成功例を披露したかのようだが、もちろんこれは現段階での話であって、要するに娘のアクションについてもわたしの反応にしても、継続性が重要だろう、という推察だ。

習慣化によっては、意地悪な行動ふくめ様々な方向性を身に付けるだろう。

こういうことを、娘を見ていると感じる。

まとめ

優しさに関しては、こういうわけだから、そもそも自分の内側や心の中から自然に生じるものというよりも、信頼できる誰かを真似る=イミテーション的なロールプレイに端を発し、それをやってみた結果快感が得られれば継続的にそれをするようになる、そして様々な実践的場面を自ら経験することを通して、その行動のもつ意味や機能を学んでいくのだろう。

大人を見ていると、とっさのアクションとして優しさを示すことが出来ない人や、性根が吝嗇に凝り固まったのが隠せない人というのをたくさん見る。

そういう人は、今に至る幼少期や人間形成にとっての重要な時期に身近な人から十分に優しくされなかったか、されたとしてもそれを上回る不足や不安で、受け取った優しさを次に回す余裕がなかったのかもしれないと思う。

だからこそ、今後も娘には、娘にとってより良い行動を習慣化させられるようアクションを起こさせ、それを褒められたり評価されたりといった体験を、親として沢山積ませてやらなくてはならない。

願望多めの話になるが、ようするに教育の重要性を感じる出来事が最近多すぎる…

多めに泣いた日

今日は娘がいつもより多めに泣いた一日だった。

朝目覚めたタイミングでちょうど母が仕事に出発する場面に遭遇して泣き、

昼には寝起きで父の顔を見て泣き、

夕方には父母と出かけて母と手を繋げず(危ないからと途中で引きはがされて)泣き、

帰宅してからは父にわがままを言いながら駄々をこねて泣き…

とにかく、いつもより沢山、いつもより些細な事で泣いた。

最近自我がはっきりしてきて、いわゆる「わがまま」や「駄々をこねる」が増えたが、それでも娘はかなり聞き分けが良い方だと思う。

イヤイヤ期で大変すぎて困るといったことは今のところない。

だからこそというわけではないが、希望することは、不都合やあまりためにならなさそうという場合でなければ、なるべく叶えてやりたいと思う。

それでも本人的には虫の居所が悪いような日もたまにあり、そういう日にはこうして多めに泣く。

風呂から上がり、買ってしばらく置いておいた(出すのを忘れていた)新しい本を見つけたとき、「うへへへぇぇえうふふふふふ!!!!!」と嬉しそうにわらってテンションが上がっていた。

湯上りのお茶を飲ませる間もなく、本を持ってベッドによじ登ってスンッと待機しているのが可愛すぎて、いつもは飲むのと読むのは同時にやらないが、今日はお茶を持たせながら抱っこしてそれを読んだ。

もう、可愛すぎるんよ君は。

寝入り前にせめて幸せな気持ちになれたなら良かったよ。

本当に本当に、いつもいつもずっと永遠に愛しているからな。

頼むよ。

子どもが生まれて人生はどのように変化したか

娘が生まれてからの変化について、現在までをまとめる。

母になった”わたし”は別人になったのか

よく、「母親は子どもが生まれると人が変わる」と言ったようなことを聞く。

自分についてどうかと言われると、たしかに子どもという今や大きすぎる存在が居なかった世界と存在する世界では、完全にわたしにとって異なるものだし、その意味では変化したと言える。

娘の寝顔を見ながら、どんどん大きくなってしまって、うれしいけど寂しい、うれしいけど!とダバーっと泣いているわたしを見て夫が「待って誰これ…俺の知ってる●さんじゃない、こわい…!!!」と引いていることが良くある。

ただ、自分自身について、所謂その元々の性質や根幹を揺るがす変化が起きたかと言うと、決してそうではない。

寧ろ今は、子どもが生まれる以前に長年考えてきたことの答え合わせをしているに近い感覚だ。

娘と同じ目線に立ち、一緒に木々や虫、葉っぱなどを眺めていると、「あぁわたしの感覚は特に狂ってはいなかったのか」と思わされることが多い。

娘がわたしに寄り添ってくれるからそう思えるのかもしれない。

”自分ファースト”ではなくなった人生のその先で

もう一つ、最近SNSで目にした考えでなるほどと思ったものがある。

子どもを生みたくない理由として「”自分ファースト”の人生を送りたい」というものだ。

いや超わかる…自分が楽しんでこそ人生に責任が持てるし、”自分ファースト”でなくなった先での生を誇れる・愛せる気がしなかった。

実際どうかと言うと、確かに、子どもが生まれてから自分一人の為の自由時間などはほぼなくなったし、気付けばいつも子どもか夫のことを考えている。

だけど、個人的にはこの”自分ファースト”ではない状態、予想していたよりもずっと歓びに溢れている。

わたしの場合世界を閉じているというよりもむしろ開放的になり、娘や夫を通して世界を見るし、娘や夫が生きやすい世の中を作りたいと思うからこそ本業でも精が出せたりする。

一人で得られる歓びには限りがあったというのは、子を生んで得た実感でもある。

多少下品な言い方をしてしまうと、”自分ファースト”を越えたところに見つけた生の彩の豊かさと、これまで以上の歓びあふれ出る様を知った今、先に見かけた子どもを生みたくない理由などを見ると、納得すると同時に「まだそこにいるのだね」と微笑ましく思う。

余談になるが、”子どもを生まない”という選択は、大学の選択科目を”ただ選択しない”ようなものだ。ただ”選択しない”だけのことをあたかも正当な行為として能動的・積極的に主張しなくてはならないと感じさせる社会事情自体、かなり不幸なものだし、これこそ我々の世代で変えていかなくてはならないと思う。ちなみにわたしが長年子どもを生むことを全く考えなかった理由は「クソ面倒くさそう」だ。こんな感じの理由を堂々とまかり通してきたほうだから、誰しも生みたかったら生むというので良いと個人的には思う。

今、どんなことに関心を抱いているか

わたしが昔から自分自身に課している行動指針は、野生的で優しく強く美しく在ることだけだ。

そのうえで、先の事情もあっていまや”自分が”楽しい、”自分が”美しい、”自分が”最高…みたいな話はもうあまりカッコ良いと思えなくなってきた節があるし、わたし自身にも尊ぶものがある。

本業ともかかわるので具体的には割愛するが、少し明かすと、わたしは、次の世代に残すべきものだけを残し、それ以外のゴミを片づけたいと考えている。

新しく生産する以上に、これまでの積算から選び、選ばないものを削ることを優先する。

世間の考えが「変わった」と実感できるほど変わるには、わたしの知る限り2世代ほど時間を要する。

だからわたしが生きている間にそれほど大きな変化などは望めないかもしれないが、それでも地道にやりたい。

こういった現金な事情から、原則わたしが付き合う相手は楽しくて美しくて最高なのはもはや間違いがないのだが、その先で相手がわたし同様「何を尊んでいるのか」については、つぶさに関心を向けていく必要があると思っている。

たとえ人間的に好ましい相手でも、こうした部分が大きく違えば一時的に交わりを断つだろうし、互いにそれが変化すればその先でまた交わることもあると思う。

そんな感じだ。

とりあえず今日も娘は可愛い。

娘の、なにかに集中しているときの顔が好きだ。

最近突然その波がやってくるので、さっきはわたしのお腹の上で持ってきたおもちゃの蓋を開けて中身を全力でかき出そうとして、全集中になっていた。

唇をちょっと引き結んで、瞳には目の前の対象しか映っておらず、まつ毛が時々短いまばたきでファサッと揺れる。

こういうとき上から見たときの娘のほっぺには、幸せがまるっと詰まっていると思う…

えーん、かわいい…ほっぺをつまみたいし髪をクンカクンカしたいしちゅーしまくりたいけど、邪魔しては良くないのでただ見つめている。

娘の読書傾向

娘が好きな絵本は、以下3ついずれかの要素を持っている。

目新しく、読んだことがない本

娘は本が好きだが、最近は「良く知っている本」よりも「初めて読む本」に興味を示すようになってきている。

これまで大好きだったディック・ブルーナのシリーズや、まどみちお『くまさん』等はスルー。

良かれと思って持っていくと、「おしまいッ!!!」と閉じようとする。

図書館に行く頻度を増やしても良いかもしれない。

図鑑

図鑑系は簡単なものから写真多めの本格的なものまで、前々より幅広く何でも好きだ。

特に最近のお気に入りは『はじめてずかんシリーズ どうぶつ1、2』『じぶんでよめる さかなずかん』

細かいところまで「これなにー?」と聞いてきて、答えるとたのしそうに復唱している。

「ほうぼう」や「はなごんどう」などマニアックなものを覚えている。

アンパンマンシリーズ

これはもうどんな話の内容だろうが本が小さかろうが好き。

ベッドにも持って入る。

アンパンマン、じつにおそるべし。