娘が、寝る前に大好きなミッフィーのぬいぐるみを自分の隣に寝かせて、布団をかけてやり、うまくかからないので一生懸命向きを調整するなどしてふかふかにしてあげている様子を見ていたらなぜかダバーッと泣けてきて夫に心配された(正確には、本気で心配されたのではなく面白がられた)。

娘を見ていると、優しさは、元々心の中に核があるものというよりも、最初は生活様式の真似事から端を発して、それが心に小さな灯のように宿るものなのかもなと思う。

娘がしていることは、まさにわたしがかつての娘や今の息子にしていることの真似事のようなものだ。

そして、それをしているとき娘はとても楽しそうで、熱中しているように見える。

優しさの原型とは、深い理解や倫理への探求というよりも、自分がしてもらったことを他人にも施したらなんとなく心地が良かった、というような経験を通して作られていくものなのかもしれない。

だから、この子が優しく居られるかどうかは、やはり親にかかっていると思うし、親の努力で優しさのきっかけを提供できたとしても、その先それをどう育てるかは本人に委ねるところが大きい。

居られないとしたら親の所為だし、居られるとしたら本人の功ということだ。

…みたいなことを思いながら、娘が着実に成長してきているのだなと知って切なすぎて30分ほど静かに静かに泣いたので、朝から目がしばしばする…

息子が生まれて一月が経った。

夢のように美しくて、毎日溺れるような幸せの元で過ごしている。

何度も言うが、自分にこんな生活が訪れるとは…

娘は、夫にかなりなついた。

そしてこのブログタイトルのように少し粗野に。

可愛くて仕方がないのは2人とも同じだが、新たな発見として、子どもは同種の異個体ではなく、それぞれがまったく新しい世界そのものだった。

娘が可愛すぎて、この子ほどに愛せる存在など果たしてあり得るだろうかと、わたしは不安だったのだが、恐らく杞憂で済むだろう。

息子が生まれて、まったく新しい脳の領域が開花したように、これまでになかった息子という概念が生まれて、これからもきっと育つだろう。

娘に対する愛おしさと比較しようと試みること自体愚行だった。